落 水 事 故

風速が三十ノットを超えると海上はいたる所で白兎が跳ね出し、初心者のヨットは出航を見合わせ、すでに航行中にある艇は縮帆作業に追われ、ディンギーは横転する。
この日、風速計は三十から三五ノットを示し、艇速計は八から十ノットを指していた。見える範囲内においてフルセールで帆走している艇は奴隷船(本誌七〇号で紹介させていただいた、ババリア四四フィート)ただ一隻だけだった。傾斜角度三十乃至三五度。例によって風下側の舷を波が洗い、ジブセールは波を掬い、船首は波頭を砕きスプレーを撒き散らしている。
今、この風浪の中で落水者が発生したら、いかに対応すべきか・・・・。
奴隷船は以前に落水事故を発生させている。いや、正確に言えば落水ではない。プロペラに絡んだロープを処理するために自ら落水?し、潜ったのだが作業中にライフラインが解けてしまい潜水者が流されてしまったのだ。当然ライフジャケットは着けていない。
時あたかも夕暮前。艇上に一人残された艇長は、流されゆくクルーを見失わないように指差しながら海上保安庁と所属ハーバーに緊急電話を入れた。しかし、救援が来る前にクルーを見失った。プロペラにロープが絡んだ状態の四四フィート帆走艇は、このような緊急事態において一人では対処出来なかった。
波高は一メートル程度だったが人間の小さな頭が見えなくなるまで時間はかからなかった。
「沈んでしまった・・・」
そう思った艇長は携帯電話を握り締めながら男泣きに泣いた。しかし現場の風潮を熟知したハーバーのレスキュー艇が勘を頼りに捜索した結果、見事救助し事なきを得たが、これを奇蹟と言う。以後、奴隷船に潜水用ライフジャケットも装備されたのは言うまでもない。誤解の無いように言っておくが「奴隷船」とはクルーが奴隷のようにこき使われる船ではなく、奴隷(クルー)が楽しむ奴隷のための船という意味で、本当の奴隷はオーナーだという専らの噂がある。
さて、ヒール角三五度は急であり、波の上下を加えると、ちょっとした弾みで落水事故が発生しても不思議は無い。帆走艇の場合エンジン船のように、
「右舷落水、エンジン中立、右転舵」
というわけにはいかない。
「落水!ジブおろせ、メインダウン。風に立てろ。エンジン始動。救命浮輪用意!自己発煙信号投下!」
どたばたジタバタ・・落水者・・見失い・・一巻の終わり。
帆船における落水者救助は普段から想定し訓練しておかなければ重大事を引き起こす。
どのような風で走っているか、どの方向からの風なのかを常に考え、万一の際にはジャイブかタックかを素早く判断し最短距離で艇を戻し救助作業を行う。乾舷が高い大型艇では濡れた人間を引き上げるのは容易ではない。ブームを横に出してウインチを使って引き上げる訓練なども一度はしておくべきと考えられる。
そしてライフジャケットの常時着用は当然で、これは艇長の責任でもあり、クルーとしての常識でもある。楽しく遊び全員無事に帰港するのがシーマンシップの基本である。
「さあ、みんなで救助体験しよう!」
かくしてハーバー沖では、そこらじゅうのヨット、ボートから人が飛び込み、各艇は右往左往しながら金魚すくいならぬ人間すくいをはじめたのである・・。
「嘘みたいな話やなあ・・・。」
「ウソやがな・・・」